●アスリート対談 岡山一成×丸山良明(U-18コーチ)

投げたボールが返ってこない。タイの国民性に衝撃

 どうやってタイのチームにめぐり会ったの?
 最初はシンガポールのチームと話がまとまりかけたけど、契約直前で白紙になって。日本にいても埒が明かないと感じてシンガポールに乗り込み、自分の存在をアピールするなか、たまたま知人の紹介でタイへ乗り込み、練習参加を経てチョンブリーFCへの加入が決まったんです。
 それが09年でしょ。まだ日本人選手がほとんどアジアに出ていなかった時代、実際にタイで生活やプレーをしてみてどうだった?
 最初は正直、「なんじゃこりゃ」という感じだったね。投げたボールがまったく返ってこないというか。たとえばチョンブリーでは最初、練習に参加して何週間経っても契約の話が出てこなかった。これ以上粘っても仕方がないと思い、「次のチームに挑戦します」と切り出すと、「じゃあ契約しよう」と(笑)。誰がその意思決定をしたのか、何がどうなったのかさっぱりわからない。そのほか、タイでは時間に遅れてくるのは当たり前、何か問題が起きても「マイペンライ(大丈夫)」で済ませてしまう。そういう国民性のギャップに戸惑ったね。
 カルチャーショックに驚きながらも、日本人選手がタイで活躍する道をまるさんが切り拓いたよね。
 それは少し大げさだね。僕がタイのリーグに行ったのと同時期4人が現地で活躍し、日本人選手達が高く評価されました。ただ、その状況をみたとき、タイという国に大きな可能性を感じたんだ。リーグはまだ未成熟だけど、日本人選手や、Jリーグの育成ノウハウをこの国に持ってくれば市場が拡大するんじゃないかと。
そこで日本のサッカー協会やJリーグに足を運び、タイという国、実際の現地での生活、タイのチームが日本人選手を求めている状況などを伝えさせてもらったり、トライアウトに足を運んで選手に声をかけたりもしました。そんなことも助けたのか、結果、僕がタイに渡った翌年の10年に40人くらいが現地のチームのトライアウトを受けて、21人が契約。その後、日本人選手の活躍もあってタイのサッカー人気が盛り上がり、選手の年俸も何倍にも上がった。
一方、僕自身は10年にタイ・ポートFCに移籍、11年に引退後もタイに留まって、バンコク・グラスFCの育成コーチとして活動することになりました。

 

苦境に負けず戦い抜けるサッカー選手を育てた

 さらに12年には、Jリーグのアジア戦略の一環で創設された「Jリーグ・アジアアンバサダー」に就任したよね。タイで活躍していたのに、なぜ今度は帰国してセレッソ大阪に?
 僕が所属していたバンコク・グラスFCとセレッソ大阪は提携していて、さらにセレッソのメインスポンサーであるヤンマーがアジアでのブランディングに力を入れていたという前提がまずあります。そのなかで、ヤンマー創業者の奨学財団「山岡育英会」の取り組みでタイの子どもたちを対象としたサッカークリニックがあり、その取り組みに携わらせてもらったんだ。とても貴重な経験をさせてもらった一方、僕自身は選手を終えてそのままタイに残ったので、日本の育成方法や指導をもっと学びたい気持ちが増してきて。そこで日本に帰国して育成方法や指導をしっかりとを学びたいと思い、その希望にいち早く手を差し伸べてくれたのがセレッソだったんです。いまはアカデミーのコーチとして、子どもたちの指導をさせてもらっています。
 セレッソではどんな選手を育てたいと思って活動しているの?
 日本の育成レベルは非常に高く、その中でもセレッソはトップレベルだと言える。その中で自分が伝えられることは人間力かなと思っている。技術の指導ももちろん大事だけど、同時に苦境に立たされたときでも戦い抜ける力、人生を切り拓いていけるマインドを育てていきたい。クラブから何を求められているのかを常に考えつつ、指導の模索を続けているのが実情だね。
 そんなまるさんにとっての今後の夢をぜひ聞かせください。
 夢というのとは少し違うかもしれないけど、目の前の子どもたちを何としても成長させたい、このひと言につきるね。
 これまで所属してきたチームでの活動もそうだけど、まるさんは常に目の前の状況に全力で取り組んできているよね。今後の活躍に期待しています。今日はありがとうございました。