アジアでもまれた経験を武器に、
「人間力」を育てる指導者めざす。
「日本人選手がほとんどアジアに出ていなかった時代、いち早くタイに渡ってみて実際どんな感じだった?」(岡山)
「正直、なんじゃこりゃ、という感じ。時間に遅れてくるのは当たり前、何事も『マイペンライ(大丈夫)』で済ませる国民性に衝撃を受けたね」(丸山)
アジアのサッカーを見て、少年時代を思い出した
岡山(以下、岡) まるさん(丸山)は横浜マリノス(現、横浜Fマリノス)でJリーガーとしてデビューし、以降はモンテディオ山形、アルビレックス新潟、ベガルタ仙台、AC長野パルセイロを経てタイに渡ったよね。今日はアジアでの活躍、そして現在のセレッソ大阪での活動について話を聞きたいなと思っています。
丸山(以降、丸) おか(岡山)とは同じチーム(横浜マリノス)でプレーした仲なので、対談って不思議な感覚だね(笑)。こちらこそよろしく願いします。
岡 まずいつ頃からアジアに興味を持ち始めたのか聞かせてもらっていいかな。
丸 アルビレックス新潟時代かな。アルビレックスでは副主将を務めた03年にJ1に昇格し、選手としてすごく充実していたんだけど、05年シーズンに怪我をしてチームを離れることになってしまった。今後の方向性を模索するなか、リハビリも兼ねて自費でアルビレックス新潟シンガポールの練習に参加させてもらったんです。その際、恵まれた環境とはいえない中でサッカーに打ち込む若手選手の姿を見て、サッカーが大好きだった自分の子ども時代の感覚がよみがえってきて。いずれ引退する前、一度はアジアに渡りたいなと思ったのがきっかけですね。
「まだやり残したことがある」
岡 その後はベガルタ仙台に移籍し、AC長野パルセイロに加入しました。
丸 アジアのサッカーを垣間見たとはいえ、当時は本当に悔しくて。新潟のたくさんのサポーターが復帰を待ち望んでくれていたし、僕もその期待に何としても応えたいと思っていた。そんなとき運よく06年の途中から07年とベガルタにお世話になることになり、08年にパルセイロに移籍したんです。
岡 長野では地域活動にも力を入れていたよね。
丸 半年ほど肩書が外れた経験をしたことで、サッカー選手が世の中に与える影響力の大きさを痛感したんです。だから長野ではスクールや幼稚園など積極的に回ったし、自ら広告塔としてビラ配りもやった。その結果、集客は増えたし、チームも勢いづいて3年ぶりにリーグ優勝できました。
長野の時も覚悟をもっていろいろと取り組ませてもらっていたし、正直もう少し長くいたかったんだ。だけどそれもかなわなくて、今後の方向を考えていたとき、「やり残したことがあるよな」とふと思い出し、アジア行きを本格的に検討したわけです。